2000年度

福島大学地域政策科学研究科

「地域社会と社会心理」

カナナデータ研・レポートの紹介(第2回)

大学院「地域社会と社会心理」(火曜夜7限)では、「データとは何か」なる曖昧なテーマをかかげて、いろんな方々に話題提供をいただく研究会方式の運営を行うことにしました。研究会の愛称は「カナナデータ研」にしました。以下は参加した院生諸氏のレポートです。

日時:2000/5/30

場所:福島フォーラム

映画『スペシャリスト―自覚なき殺戮者』

鈴木実

スペシャリストは全篇がナチスのホロコーストに大きく関わったアイヒマンについての裁判の証言からなっている.私自身には法学的な関心はあまりないし,法律云々をいう知識も持ち合わせていない.それに映画自体の編集が特別すばらしいものでもなかった(と思った).アイヒマンという人間を描き出すという点ではある程度成功していたが,裁判官とのやり取りを行う映像で,裁判官のいう「市民的勇気」の話を最後に持ってくるのは好きではない(裁判の時系列に沿ったのだろうが).これでは結局アイヒマン個人の良心の問題で,勇気を振るっててめえが死ねばもう少しユダヤ人が死なずにすんだんだというようなものだ.ホロコーストのような虐殺は個人の良心とか個人の属性(根っからの悪人)という問題ではない.アイヒマンの証言や様子から推測することであるが,アイヒマンだから行った所業というわけではなく,それは誰もが行い得ることであった.気付かずにでも気付いていてもだ.もちろん個人に責任がないということではないだろうが.そもそも悪人という人間は存在しない.非常に平凡で善良な小市民であっても状況次第では行い得ることなのだと思う.それどころが今悪とされることは状況が違っていればそうではないことだってあり得る.何が悪なのかということすら状況によって変わってくる.映画を見る限りで,アイヒマンという人間は悪人というものを彷彿とさせない,というよりむしろあまりに凡庸で組織,制度に忠実で あっただけの人間だったように見ることができる.「生まれながらの悪人」という性質は存在しないのだということを確認できるのではないだろうか.


高橋明美

 何故、アイヒマン裁判の映画の題名が「スペシャリスト」なのだろう、と疑問に思っていた。映画の中で、アイヒマンは仕事を体系的に組織化し、忠実に遂行していた、という点でスペシャリストと言える、とあり、なるほど、と思った。しかし、そのようなことを「スペシャリスト」ということに不思議な感じがする。

 裁判映画を観るのは初めてだったので少しとまどったが、裁判が進むにつれて、アイヒマン個人の責任の問題、良心へと焦点が向かっていきその過程がとてもリアルで、臨場感があり考えさせられた。

 ユダヤ人虐殺が、たくさんの部署が関与していたのにもかかわらず行われたことが恐ろしい。映画の後半では「市民としての勇気」などが話されていたが、その時の時代背景や状況など、複雑なことがかかわってきているので、それについて私が良いとか悪いと言うことはできないと思う。

 組織の中の自分ということから考えると、もしかしたら身近に、「虐殺」までいかなくても、ひどいことが行われているかもしれない、と思った。普段の日常の中で、何気なく行われていたり忙しい雑務の中で埋もれているかもしれない。そして、実は自分がそれを引き起こしていたり、これから行うかもしれない。流されず、判断できる自分でいたい、と思った。


斎藤久美子

 アイヒマンは、ナチスドイツのもとで、ユダヤ人を収容所へ送る列車運搬の責任者であった。スペシャリストと呼ばれるほど有能な彼の働きにより、多くのユダヤ人が命を失った。しかし彼は裁判で「命令に従っただけ。私に責任はない。」と無実を主張したのである。この映画は、個人と組織の関係について扱っている。個人が組織の一員になるということは、組織の決定に身をゆだね、個人の意思は不必要になる恐れがある。

 ここで注意しなければいけないのは、アイヒマンはナチスの論理に従って動いていたが、裁判はユダヤ人社会の価値観に従って行われており、さらに、映画は製作者の世界観でつくられ、映画を見ている我々は現在の価値観の中で見ているということである。我々は、何か自分より大きなものの中に生きて、行動しているが、多くの場合アイヒマンのように無自覚におこなっているのである。

 私の身近な問題について言えば、私は箕浦本に従って何の疑いもなくフィールドワークを行っていた。しかしいざ論文を書こうとすると、立場の違う人々に対して自分の方法の必然性が自分の言葉で語れないことに気づいた。この映画は自分をからめとっているより大きなものについて意識することの大切さを語っていると思う。また、こういったことを明らかにいていくのが心理学の役割なのかなとも思ったりした。


大門信也

アイヒマンは元ナチス将校でユダヤ人移送計画の指揮を執った。アルゼンチン潜伏中に捕まり、1961年裁判にかけられ翌年絞首刑となった。本映画はその裁判を編集したドキュメンタリである。

 映画を観た多くの人は、彼を凡庸な人間と判断し誰もが彼と同じ行動をとる危険性を唱えるであろう。しかしこの映画(データ)からその仮定を証明することはできない。

 なぜなら彼の全人生を写しているわけではないし、彼は1つの事例にすぎないからである。確率統計的に全ての人に当てはまるかを考慮する学術的な立場では、これは憶測と判断され棄却されるであろう。それにしてもなぜ人間は(憶測だとしても)論じ得るのであろう。人間は、高度な情報処理能力を持っていると言えるのではないか。

 勿論、このような人間の憶測的判断を裏付けるのが学問の役割と言われれば、それまでの話である。しかし、人間自身のデータ処理能力について考えることも、ある意味重要であろう。


カナナデータ研  佐藤達哉(社会心理学研究室)  福島大学行政社会学部