2000年度

福島大学地域政策科学研究科

「地域社会と社会心理」

カナナデータ研・レポートの紹介(第14回)

大学院「地域社会と社会心理」(火曜夜7限)では、「データとは何か」なる曖昧なテーマをかかげて、いろんな方々に話題提供をいただく研究会方式の運営を行うことにしました。研究会の愛称は「カナナデータ研」にしました。以下は参加した院生諸氏のレポートです。

日時:2000/12/05 19:40〜

場所:行社棟3階  中会議室

講師:飛田操先生(教育学部)「グループメンバーの初期判断とグループによる問題解決」

鈴木実 今回は、教育学部の飛田操先生による、「グループメンバーの初期判断とグループによる問題解決」に関する発表であった。個人の解の初期パターンと集団討議後の回答との関係性(判断の分布)から、課題解決におけるグループのパフォーマンスについて検討している。ここにおける課題とは非ユーリカ型の課題である。非ユーリカ型の課題とは、解の正しさが自明でなかったり、客観的には保障できないような課題を指す。このような課題解決においては、グループが正解するためには、正答者がグループの中で初期多数者になることが必要とされるという。この研究は個人と集団の関係などを対象として研究する、グループ・ダイナミックス研究の一つと考えて良いだろう。グループ・ダイナミックスは実験や調査などの実証的方法、理論構成に集団の力動的側面を重視するといった特徴が挙げられるが、今回の飛田先生の発表は、そういった意味で非常にオーソドックスな、正統的社会心理学の方法論を用いた研究といえる。非ユーリカ型課題解決には、正答者がグループの中で初期多数者になることが必要であるということを示すため、実験を行っている。その方法は、6名のグループをつくり、「危機からの脱出」と題された10問からなる課題を3択で個人に答えさせ、次にグループで検討の上、グループとしての回答を出させるというものである。この実験から得た個人の正答、集団の正答について、個人の正解率とグループの正解率、個人解における正誤の人数比とグループ解の正誤比、3つの選択肢への選択率から分析が行なわれている。結果として、非ユーリカ型の課題解決におけるグループの判断は、個人解の単純な人数比により決定されている可能性が高く、マイノリティの影響はほとんど見られない。グループが正解するには、正答者がグループの中で初期多数者になることが必要であるということを導いている。いわゆる心理学においては、客観性、再現性が確保されていることが前提条件として挙げられるだろう。そうしたしたものが求められる場合において、環境や状況というものを極力統制した条件下で主眼となる現象のみを抽出して行いうる実験という方法論は、非常に洗練されているといえるだろう。実験室での出来事(結果)は、実験という特殊な環境での、文脈との相互作用(例えば研究者と被験者)に過ぎないと考えることもできる。しかし実験という方法論は、ある現象を可能な限り量的に把握することを可能にする。このような再現可能な試みが、データの信頼性という面から考えても、他者に証明する場合に非常に有効であることをさらに実感したものであった。

斉藤久美子

1 グループ・メンバーの初期判断とグループによる問題解決
 この研究は,「危機からの脱出」という解答が自明でないような課題(非ユーリカ問題)について,はじめに個人で回答させ,次に6人のグループで相談して回答を出させ,個人の正答した割合と,グループの正答した割合との比較を行ったものである.結果は,個人解での多数解が,グループの解となっている傾向が見られた. このような結果は陪審員制度の是非について示唆を与えるものである.
 カナナの参加者で実際に課題を解くことによって,データを取ったその場の様子を知ることができた.
 この研究におけるデータとは,個人の正当数とグループの正当数というように,数字になっていて,個人解の多数解が,グループの解となるのがはっきりとわかった.
 別の研究になってしまうと思うが,私の中には「"どのように"多数派意見が集団全体の意見と化していくのだろうか」という問いがあらわれた.実際の話し合いの中で,みんなで(わたしだけ?)意見の違う明美さんにプレシャーを与えた経験を思い出しつつ,話し合いの内容を分析したら,その仕組みや,どうしたら多数解ひとり勝ちにならないかといったことがわかってくるのかなと思った.

2 パラドキシカル・コミュニケーションを考える
 この発表は,飛田先生が学校の先生や看護婦達から集めたパラドキシカル・コミュニケーションの例をデータとしてそのまま提示したものであった.パラドキシカル・コミュニケーションとは,例えば,廊下を走る子には「廊下を走ってはいけません」という注意はさっぱり効果がないが,「上手に走ろうね」という呼びかけを行うと,廊下を走ることは減少する.授業中に眠ってしまう子には先生が「起きなさい」と繰り返し注意しても眠ってしまうが,「いい夢見てね」と言ってみると,居眠りが少なくなるといったものである.
 私はなんとなく,場の求めるふさわしさと自分の行動との間のズレを自分で気づかせて居心地の悪さを感じさせているのかなと思った.パラドキシカルコミュニケーションの例示では,パラドキシカルな呼びかけの前にはストレートな呼びかけが(おそらく日常的に)なされていて,その後にパラドキシカルな発話が行われ,効果を発揮していた.おそらく他人の行動を変えたいときに,はじめからパラドキシカルなコミュニケーションは行われないのだろうなと思った.つまり,「廊下を走ってはいけない」「授業中に眠ってはいけない」といったような,教師や看護婦という"管理する側"の価値観が,生徒や患者などの"管理される側"に(明示的にしろ暗示的にしろ)伝達され,理解され,双方にあらかじめ共有されていることが,パラドキシカルコミュニケーションの効果が発揮される前提となっているのではないかと思った.
 

大門信也 今回は飛田先生による、「グループメンバーの初期判断とグループによる問題解決」及び「パラドキシカル」についての発表であったが、今回は前者についてレポートする。
 飛田先生の研究は、ある問題に対しグループのメンバーが個々に下した"初期判断"の正解率の分布と、グループで討議した後決定した判断の正解率を比較検討することにより、グループによる判断がどのような効果を生むかを検討するという内容の研究である。ただし、ここで扱う問題とは、解の正しさが自明でなかったり、客観的には保障できないような"非ユーリカ型"型の問題である。飛田先生は実験を行い、初期判断における正解者が多いほど、グループによる判断の正解率も上がり、マイノリティの影響はほとんどみられないという結論を導いている。
 実験ではまず6名のグループをつくり、ある課題を個人に答えさせ、さらにグループで検討の上、グループとしての回答を出させた。課題は「危機からの脱出」と題された10問からなる質問で、それぞれ3つ選択肢を選ばせる選択肢問題であった。ここから得られた個人の正答及びグループの正答は(1)各問における、個人の正解率とグループの正解率 、(2)個人解における正誤の人数比とグループ解の正誤比率 、(3)3つの選択肢への選択率に注目した、メンバーの選択パターンとグループの選択比率という形に処理され、分析が行なわれた。結論は前述の通りである。
 このように、本研究ではある社会的状況を模擬的につくりだし、そこから数的データを集めそれに数的な処理を加えることにより、グループによる問題解決のメカニズムを明らかにしている。つまりデータは現実の社会から得られたものではなく、あくまで模擬的につくりだされた社会から得られたデータである。ここから2つのことが言えよう。1つは模擬的な社会状況を巧みに作り出すことにより、自分の得たい純度の高いデータを得ることが出来、合理的であるということである。もう1つは逆に廃した雑音が、仮にその問題における重要な要素であった場合(この研究の場合は、グループの問題解決に年齢による差、職業による差、あるいはグループ全体や個人個人におけるある問題に対する取り組み態度や切迫性の違いなど)、ある一面の事実を発見することができないという問題点である。この2つは、今回のような研究の方法論をめぐる大きな争点となろう。
 個人的には、実社会のなかからどのように問題を発見し、その問題を概念化していくかを研究課題としているので、普段は後者の立場を採っている。しかし、今回の発表から、巧みに模擬的な条件を作りだし、そこから分析の歳に客観的な手続きを取り易い量的なデータを得、考察を行っていくスタイルが、非常に有効な手段であることを実感した。結局のところ、データが量的だから、質的だから、良い悪いといった問題ではなく、どういった問題に対しどういったデータが必要なのかということを考える必要があるのであろう。データが量的であれ質的であれ、あくまでそのデータから妥当な結論を引き出すことのほうが重要なのである。その意味で今回の発表は、自分の研究が採っている方法論が研究対象やその結論に対し妥当な選択であるのかについて考えさせられる発表であった。

高橋明美 “危機からの脱出”というテーマで、受講生同士話し合えたことがおもしろかった。皆で話し合うことが久しぶりだったし、カナナ受講生以外の意見も聞けた。意外と(失礼かな・・)みんなしっかり意見を主張していた。しかもわりと自分の主張を曲げない強気な姿勢が、妙にここちよかった。こういった教室内でおこなわれる実験が、陪審員制度研究に応用されるとは驚く。しかし、課題は多いと思う。ここで得たデータをどのような形で、その研究へ応用させていくのか、ということである。「教室内の学生達がだす結論」と、「陪審員たちが取り組む課題」は別なものだからだ。
 さらに、飛田先生はパラドキシカル・コミュニケーションというところに着目し、具体例を集めている。看護婦や小学校の先生などから体験談を聞くことはおもしろいなと思った。それが短期療法やカウンセリング、人間関係などさまざまなところで影響をあたえる。アクションプログラムにより、いかにグループへ多様性を持たせるか、など「パラドキシカル・コミュニケーション」という言葉ひとつとっても幅がひろく、いろんな場面で考えることができるものだな、と思った。


カナナデータ研  佐藤達哉(社会心理学研究室)  福島大学行政社会学部