2000年度

福島大学地域政策科学研究科

「地域社会と社会心理」

カナナデータ研・レポートの紹介(第10回)

大学院「地域社会と社会心理」(火曜夜7限)では、「データとは何か」なる曖昧なテーマをかかげて、いろんな方々に話題提供をいただく研究会方式の運営を行うことにしました。研究会の愛称は「カナナデータ研」にしました。以下は参加した院生諸氏のレポートです。

日時:2000/10/31 19:40〜

場所:行社棟3階  中会議室

講師:荒木田岳先生(行政社会学部) 「明治期の町村数を数える」

鈴木実 荒木田先生による今回の発表は、「町村の数を数える」というテーマのもとに行われた。これはただ単に昔の町村の数を数えるというだけの話ではなく、町村の数え方の歴史的変遷をたどっていくことが、町村というものをいかなるものと認識していたのかが把握できるというものである。そうした歴史的認識が、現在の町村合併などの問題への対処などにつながってくる。今回の発表におけるデータは、歴史的資料によって把握できる町村の数である。時代区分にしたがって,町村と認識されていたものの数を数えていく。そうすることによって、我々が現在抱いている町村という枠組みは、超歴史的な存在ではなく、常に流動的に変化していっているものであるという認識ができる。この歴史的な町村に関する枠組みの認識が、現在、町村という枠組みに関して大きな変革を迎えつつあるような地域的問題(例えば町村合併など)についての打開策を模索していく上で非常に重要なものとなってくる。我々が自明のものとして現在考えているものも、歴史という枠組みから、その時代的変遷や概念を改めて見直してみると、非常に流動的なもので、固定された概念ではないということに,しばしば気づかされる。今回の発表は自明のものと思いがちなものも、歴史的観点やその他様々な観点から把握する試みを行うことによって、新たな認識枠組みを形成することができ、現状を打開することが可能となりうるということを認識させられた発表であった。

斉藤久美子 荒木田先生の研究は,さまざまな時代の町村を数えることによって,その当時の人々がどのように暮らしていたかを知るのが目的である.村や町の規模や性格は,それぞれ時期や地域によって異なる.町村は,近代以前は徴税の単位として,近代以降は学校の単位としてのまとまりであった.さらに町と村ではそのなりたちが全く異なる.町は都会で,村は農村で構成された.
 データは「郷帳」と呼ばれる町村に関する記録が記してある古い資料などから得られている.そこから,町村の合併や分割,人口の増減などが荒木田先生によりまとめられきれいに整理されているのだ.それらの資料からは,「市制町村制」などの「法」によってぐんぐん急激に人口が増えているのが(つまり町村数がめきめき激減しているのが)はっきりわかった.ほんの13年で6,7倍の人口増加って・・・そんな急激な変化が起こって問題が起きなかったのだろうか?(←反語表現)町村に生きる人々は,「お上」の管理の都合で翻弄されてきたのかな〜と思ったりした.
 現在,市町村は何人以上だったら市,何人以上何人未満だったら町といった具合に人口によって区別されているが,その歴史をたどると,数や量が違うと質的にも,つまりはそもそもの成り立ちや性質が違うということがわかる.その町村独自の「アイデンティティ」と,現在すすめられようとしている町村合併の問題は,矛盾するのではないか!というのが荒木田先生の問題意識なのであった.「町村がっペー!」とか言って「くっつけりゃあいい!」という考えは,今も昔も変わらぬことよと思った.というか私自身町村合併などと聞いてもなんとも思っていなかったので,歴史を知るのは尊いことよと思った.

高橋明美 町村の数が時代とともに変化している様子が郷帳を通して示された。その時代の制度、税金などによりさまざまな変化があった。同じ場所なのに数が変化している、この変化の基準は何なのか、という話に興味を持った。
 結論・・・近代において町村の概念は一大転換をとげた。
 先生は、町村合併の問題で 県内をまわる機会がある、という。合併は、現在、各町村が抱えている問題であり、実際、大きな変化に向けて議論されている。授業の中で、「合併」の問題を量的ではなく「質的意味」としてとらえる必要がある、と先生はおっしゃられたが、では「質的」とは具体的にどのようなものなのか。 これは各個人によって、違うものなのではないか。だからこそ、興味深く、調査のやりがいがある。人々の暮らし、躍動感、などを地域の人々とふれあうことで、自分自身感じること、その中から何か見えてくるものがあるのではないか、と思った。

大門信也  今回の発表は、町村がどのように認識されていたかを知る手がかりとして、日本における町や村の数え方の歴史的変遷をたどるという内容であった。

 まず、町の数え方について説明された。坊城制がしかれていた平安京では、碁盤の目のように区画整理してあり、当初は道に囲まれた1ブロックを町と呼んでいた。しかし、時代が下ると、交差点を中心とした四方の道の両側を1つの町と数えるようになった。江戸時代になると、交差点間の道を挟んだ両側を1つの町として数えるようになった。明治5年の長岡城下に関する資料から、江戸時代の町の様子がわかる。資料には「二十四ヶ町 個数千六百七十戸」とあり、計算すると、1町あたり平均70戸であり、当時は総町単位での行政区画が存在しておらず、現在の町内会に近い形で町が存在していたことがわかる。
 次に村の数え方について説明された。江戸時代の「郷帳」という各村の石高を記入した資料からは、村の領域が村人の領有していた土地の範囲であること、町同様、一村70個ほどであったこともわかる。
 近世以前、町や村は以上のような形であったが、明治維新以降、近代的な町村へと変わっていく。都市・農村及び内部における差別が表面上はなくなり、空間が斉一化され、現在のように「地籍」「境界」によって区切られていくのである。また、明治の初期は、長岡のように江戸時代の区画が残っている地域があるなど、地域によって、町村編成の進行度はまちまちであった。これも1市町村における戸数を見るとよくわかる。例えば、長崎県の1市町村における平均戸数は、明治6年=322戸、明治9年=346戸、ともともと戸数の多い地域は概ね横ばいであるが、新潟県の場合、明治6年=58戸、明治59年=364戸と、急激に多くなっている。全国的に見ても、現在に近い村長の形が出来あがってきたのは、明治22年あたりのようである。
 以上が本発表の大筋の流れであるが、ここにおけるデータとは、町や村の数と、その数え方であったといえる。そして、これらの時間的、地域的変化たどることにより、我々のもつ町や村の概念が「超歴史的」ではないことを明らかにした。我々が現在考えている町や村の概念そのものが昔とは違うものであるという事実は、町村合併など新たな変化が見られる現在を相対化し、よりよい方向性を模索する上で、非常に興味深い事であると感じた。


カナナデータ研  佐藤達哉(社会心理学研究室)  福島大学行政社会学部